かつお節や昆布が「だし」として文献に登場するのは江戸時代に入ってからですが、かつお節や昆布は長い間日本人とともに歩んできました。
食材としてのかつおと昆布
昆布が登場する日本最古は、平安時代初期に編纂された『続日本紀』とされています。
具体的な食べ方は明らかになっていないものの、蝦夷地から朝廷への貢納されていたことが記されています。
一方、鰹は各地の産物を収めさせる税として「堅魚(かたうお、かつお)」「煮堅魚(にがたうお)」、「堅魚煎汁(かつおのいろり)」の指定がされていたことが養老令の注釈書『令集解』に見られ、いずれも鰹の加工品と考えられています。
現代と似た使われ方をしていた平安時代以降
平安中期に作られた長編物語『伝奇物語』の中に「鰹つきの削り物のやうに」という一説がありますが、「花鰹」「かつお節」が文献に登場するのは鎌倉時代のこと。
鎌倉初期に書かれた宮廷料理書『厨事類記』に鰹についての記述が見られ、堅魚煎汁(かつおのいろり)が、醤油のもととなる発酵調味料『醤』の代用品となっていたことや、現代のかつお削り節と似た使い方がされていたことが記されています。
「花鰹」の文字が初めて記載されている文献は室町時代の『四条流包丁書』、「鰹節」の文献での初見は『種子島家譜』。
かつお節製造方法の改良と流通、精進料理とともに広まる昆布
現代のかつお節と同様のものが生まれたのは17世紀終わり頃。
狩猟漁獲をはじめとする各種産業の状況を示した資料『日本山海名産圖會』によると、江戸時代中期には現代の加工方法に近い製造方法でかつお節が作られていたことが記載されています。
江戸時代初期は紀州産の熊野節が良品とされていましたが、この製造方法のおかげで、土佐節や薩摩節が最上品として知られるようになったとか。
17世紀後半の江戸時代前期、大阪で鰹節業の問屋が成立し、紀州や土佐から鰹節を仕入れて大坂、京都などに供給しはじめ、江戸へ広まっていったのは18世紀のことです。
植物・動物に薬事的な効果・効能があるとする考え方は中国から伝わり、江戸時代には『本朝食鑑』や『大和本草』をはじめとする本草書(植物、動物を分類し、味や効能について説明した資料)に書かれるようになり、鰹や鰹節についても記述が見られます。
昆布が特産地とともに文献に記述されているのは、室町時代は南朝の『庭訓往来』。往来物(往復の手紙)の形式をとり、寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書の一つで、各地の特産品を列挙する中に宇賀昆布の記載があります。
昆布は、精進料理の発達に伴ってより広く使われるようになりました。
参考サイト:国立国会図書館『本の万華鏡 第17回 日本のだし文化とうま味の発見』