昆布の国内生産量の95%を占める北海道。かつて蝦夷地と呼ばれた北海道では、古くから昆布を食べる習慣があり、乾燥させて保存させる知恵があったと言われています。
薬の代用品で高級食材だった昆布
その歴史は古く、平安時代の文献「延喜式」や「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に『昆布』という文字が多く登場し、租税として昆布を納めさせていたことや、神事や仏事の食事の際の昆布の調理法が記されています。
当時は食べ物というよりは細かくし薬として珍重されており、貴重品で宮中や貴族など特権階級の食べ物だったことが伺えます。
物流の発達と仏教の伝来により、薬から食べ物へ
仏教をとりまく文化が伝えられた鎌倉時代、精進料理も大陸の文化として伝来し、やがて日本料理の起源となっていきました。動物性の食材を禁忌とした精進料理にとって海藻(植物)である昆布は、菜食でありながら栄養価が高く、食材としても使いやすかったため重宝されたと言われています。
また、やがて迎えた戦国時代でも「打ち、勝ち、よろ”こぶ”」という縁起のよい語呂合わせと、保存性に優れ携帯しやすい昆布は、武士にも大切にされた食材でした。
豊臣秀吉の太閤検地以降、土地の価値がコメの生産高で評価され、武士たちの給料はコメで支払われるようになってからは、寒冷地だった蝦夷地にとってコメの代わりを果たしたのが昆布をはじめとする海産物です。
当時松前藩は江戸幕府から漁場の権利が与えられ、その漁業権を本州からコメを運んでいた近江商人に渡すことで対価を得ていました。それが、のちに昆布の普及に大きな役割を果たす北前船のルーツです。
17世紀後半、江戸幕府の命により河村瑞賢が日本海側航路を開拓したことがきっかけで、蝦夷地から大坂まで大量に早く安全に物資を輸送することが可能になったことで、昆布がポピュラーになっていきます。
この北前船が昆布を運んだ経路は「昆布ロード」と呼ばれ、このおかげで庶民の食卓にのぼるようになりました。
関連リンク:日本の東西のだし
参考文献:「昆布と日本人」奥井隆 著/日本経済新聞社